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母のこと

2022年10月29日 (土)

母と・・・

  2カ月に一度、診察の時にだけ外出が許されている母にコスモスを見せてやりたくて、
和泉リサイクル公園に行ってきた。
グループホームから30分。
病院への道のりも30分かかるので、コスモスを見る時間は30分しかなかったけど、それでも見せてやりたかった。

満開のコスモス畑に無反応な母でした。
去年はもう少し分かっていて、「綺麗ねえ」と言ってくれてたのに・・・。
用意して行ったケーキをベンチで一緒に食べた。
ただひたすらケーキを口に運ぶ母。
あ~、食べることは生きることなんだなと母を見て感じた。

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コロナ禍でこの2ヵ月に一度の診察時以外は施設から出られなくなって3年。
この7月からは歩けなくなって、車椅子生活になり4ヵ月。
歩けなくなると、あっという間にトイレにも立てなくなり、
パットパンツや夜はオムツを付けられてしまうようになった。

姥捨て山に母を捨ててしまった私には、このことに何も物申すことができないでいる。
会うたびに「私のことが分かるのか?」とドキドキする。
会うたびに表情がなくなり、呼べば返事はするものの、
「久しぶりやねえ」ばかりを繰り返す母。
私の顔を見る度に、今初めて会ったかのように「幸子やないの?」と驚いた表情で言う。

人はどうして認知症なんかになるのでしょう?
それは、もう生きていても何も愉しいことがないから、
何も分からなくなってしまった方がマシだと感じる心がどこかにあるからではないのでしょうか?
淋しい人が認知症になる。
生きることが苦しい人が認知症になる。
私にはそんな気がしてならない。

2015年の春に長年一人暮らしをしてきた寝屋川の家から堺の我が家の近くに引っ越してきた母。
その時期にはもういろんなことが上手く処理できなくなっていて一人暮らしに限界を感じていたのでしょう。
引っ越しで何年かぶりに訪ねた母の家は、
「あ~、こんなところに一人で暮らしていたのか・・・」と苦しくなるほどに荒れ放題だった。
その時のショックは忘れられない。

我が家の近くのURに引っ越してきて、そこで暮らせたのは3年間。
だんだんと電灯やエアコンやテレビのスイッチが区別できなくなり、
電話が使えなくなり、料理もできなくなった。
最後の半年ぐらいは私が作って持って行く食事以外は、アイスキャンディーしか食べなくなっていた。
歩いてすぐのスーパーに行ってはアイスキャンディーばかりを冷凍庫いっぱいに買い続けていた。
朝スーパーに行ったことを忘れて、昼からまた行く。夕方にもまた行く。
キャンディーばかりを買って帰る。
真夏の炎天下の外で毎日デイサービスの車を待つようになり、
熱中症で倒れかけて通りがかりの人に助けてもらったこともあった。
もう選択の余地はなかった。
いくつかを見学して、結局、我が家から一番近いグループホームへ入れていただくことにした。
「私に”死ね”ということやね?」
私を責めて恨んだ母のこの言葉を忘れることはない。
でも、私は母とは一緒に暮らせない。

佐野洋子さんのエッセイが心に刺さるのは、イコール”私”だからです。

でも、母に会わなければいけない。
あれ以降、一度も私を責めることはしなくなった母に私は会いに行く。

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2018年9月 3日 (月)

姥捨て山~②心の持ち方

母をグループホームに入所させてから1カ月と少しが経ちました。
人っていうのは、
ひとつの心配事を片付けたら片付けたで、
またどこかから新しい心配事を探し出して来ては、
それについて悩む…
そういう風にできてしまっているのでしょうか?

母をグループホームに入所させたことで、
熱中症で倒れてはいないか?、
近所のスーパーで迷惑をかけてはいないか?、
火の始末は大丈夫だろうか?、
ちゃんと食べているだろうか?、etc、etc…
そんな日々の心配からは解放されました。
そしていつも母を叱ることになっていた日々からも解放されました。

入所する2ヶ月ほど前から、
毎日毎日、私が届ける夕食以外は飴玉とアイスキャンディしか食べなくなっていた母。
毎日毎日、近所のスーパーに足を運んでは、同じものばかりを買い続けていた母。
お酒とタバコをどうしても止められなかった母。

グループホームに入ってからは、
お酒もタバコも飴玉もアイスキャンディーも、
一気に取り上げられることになりました。

認知症なので、目の前にないものは忘れてしまっているので、
要求することもできないのです。
一人暮らしをしている間は、目の前の冷蔵庫にいつも満タンに入っていた
アイスキャンディもポカリスウェットも
そして、テーブルの上にいつも置いていた飴玉の袋も
なくなりました。

一気に無理やり健康的な生活を強いられるようになったのです。
好きなものを好きな時に食べられないぐらいなら
死んだ方がマシや
と言っていた母でしたが…

あんなに止めなさいと言い続けていたものなのに
それを強制的に取り上げられてしまったことを、
ついつい可哀想に思ってしまう私です

狭い建物の中に閉じ込められて、
自分勝手に外に出ることもできないのは、
当たり前のことなのですが、
可哀想に思えて仕方がないのです

私は自分のしんどさから解放されるために、
母を不自由な暮らしに追いやってしまったのかもしれない。
母は心穏やかに過ごせているのだろうか?

そんな思いが心を覆ってしまい、
とても苦しい。
近いので、ついつい毎日のように足を運んでしまいます。
外に連れ出してやれるのは家族だけなので、
連れ出してやらないといけないような気持ちになってしまいます。
これは、母を姥捨て山に捨てた自分の罪悪感をぬぐいたいからなのでしょう。

あまりに度々、母を連れ出したり、母を見に行く私を
スタッフの人たちはいったいどう思っていることでしょう?
心がいつもザワザワしています
この気持ちをどうしたらいいのでしょう

この週末、我慢して我慢して、母を見に行くのを止めました。
そうしなければいけないような気がしたからです。
私が何度も顔を出すことが
逆に母の心の平安を奪っているのかもしれないと思えてきたのです

「娘に迷惑をかけたらあかんから、ここにいるのも仕方がないと思ってる」と
おっしゃって、お母さんも自分なりに気持ちの整理をしておられます。
とグル-プホームの管理者の方から言われました。
私はもっとちゃんと受け止めて、信頼してお任せしないといけないのでしょう。
「施設に入れられるぐらいやったら死んだ方がマシや」と
ずっと言い続けていた母の言葉が、未だに私を脅かします

2018年8月 1日 (水)

姥捨て山~①母をグループホームへ

7月21日(土)に
母がグループホームに入所しました。
イヤ、
母をグループホームに入所させました。
が正しい表現です。

私は自分の母親を姥捨て山に捨てに行ったのかもしれません。
あの日以来、そんな思いがずっと心を覆っています。

心が苦しくて仕方がないので、
母のことを書かずにはいられないのです。

なんという逃避でしょう…
「ライター」という生業を言い訳にしてしまいましょう。
これが自分なのだ。
仕方がない…。

暑すぎる今年の夏、
母は何度も熱中症で外で倒れそうになり、
見ず知らずの通りがかりの人に助けていただいたり、
管理事務所のおばさんに助けていただいたり、
URに工事に来ている人に助けていただいたりしました。

暑いから、家でエアコンをつけてじっとしていなさいと何度言っても、
デイサービスのお迎えを待つために外に出て炎天下で座っているのです。
デイサービスは週3回だけなのに、
日にちや曜日が混乱して分らなくなるらしく、毎日、外で待っているようになりました。
エアコンは温度設定を17℃にしてしまい、寒いからと切ってしまいます。
この1カ月はエアコンのリモコンを見えない高い場所に隠していたのですが、
そういうものはちゃんと見つけて、
また同じことを繰り返すのです。

命の危険を感じることが度々ありました。
仕事のお昼休憩に携帯を見ると、
日々、知らない電話番号からの着歴が入っていて、
それは、たまたま通りかかって母を助けてくださった人からの電話なのでした。
母の持っている鍵に、
住所と名前、私の電話番号を記してあったからです。

もうひとり暮らしには限界が来ているのだ。
抜き差しならない状況が迫っていました。
こうせざるを得なかったのです。

たまたま教えていただいたグループホームを見学させていただいたところ、
ちょうど空きがありました。
ケアマネさんに相談すると、
翌日には、そのグループホームに必要書類を届けてくれました。
「あ~、こういう流れになっているのかもしれないなあ」と感じました。
行き詰ってどうしたらいいかわからなくなった時には、ジッと流れに身を任せてみる…
それは、私的人生観でもあるのです。
私のことを天国から見守ってくれている誰か(父?祖母?神様?)が、
必ず自分を行くべき方向に導いてくれるに違いないとどこかで信じているのです。

見学に行った日からわずか2週間で母は引っ越すことになりました。

「施設には絶対に入りたくない。
そんなところに入れられるぐらいやったら死んだ方がマシや」
と言い続けてきた母には、
「私たちが旅行に行く10日間だけだから、我慢して」と説得しましたが、
そのことを覚えているのかどうかは、もう分らないし、
それを確認することもできずにいます。

毎日、夕飯を届け、
今日は無事に過ごせただろうか?
と心配し続けていた日々からは嘘のように解放されました。
そこには「命を守るため」という厳格なルールと管理があるのです。

グループホームの生活では、
大好きだったお酒もタバコもアイスキャンディーも飴玉も
すべてが取り上げられ、
作っていただいた三度の食事とおやつのみしか食べられません。
「アイスキャンディーも飴玉も、お預かりさせていただいて、
ご本人からの要求があればお渡しします」ということです。
でも、認知症なんですもの。
目の前に見えないものは、忘れてしまっているので要求することなんてできないのです。
一気に健康的な食生活を取り戻したことになりました。

あれだけ毎日行きたがっていたデイサービスにも行けなくなりました。
介護保険の点数は、すべてグループホーム内で使ってしまうので、
他のサービスは一切受けられなくなるのです。
限られたその生活の場でのみ、時間を過ごしていく日々…

本当にこれでよかったのだろうか?
私は母から自由を奪い、母を捨てたことになるのかもしれない。
そんな思いに囚われて、
心はそれほども解放されないでいる私です。

しばらくは母のことを書いてしまうであろう私にお付き合いください

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