母と・・・
2カ月に一度、診察の時にだけ外出が許されている母にコスモスを見せてやりたくて、
和泉リサイクル公園に行ってきた。
グループホームから30分。
病院への道のりも30分かかるので、コスモスを見る時間は30分しかなかったけど、それでも見せてやりたかった。
満開のコスモス畑に無反応な母でした。
去年はもう少し分かっていて、「綺麗ねえ」と言ってくれてたのに・・・。
用意して行ったケーキをベンチで一緒に食べた。
ただひたすらケーキを口に運ぶ母。
あ~、食べることは生きることなんだなあと母を見て感じた。
コロナ禍でこの2ヵ月に一度の診察時以外は施設から出られなくなって3年。
この7月からは歩けなくなって、車椅子生活になり4ヵ月。
歩けなくなると、あっという間にトイレにも立てなくなり、
パットパンツや夜はオムツを付けられてしまうようになった。
姥捨て山に母を捨ててしまった私には、このことに何も物申すことができないでいる。
会うたびに「私のことが分かるのか?」とドキドキする。
会うたびに表情がなくなり、呼べば返事はするものの、
「久しぶりやねえ」ばかりを繰り返す母。
私の顔を見る度に、今初めて会ったかのように「幸子やないの?」と驚いた表情で言う。
人はどうして認知症なんかになるのでしょう?
それは、もう生きていても何も愉しいことがないから、
何も分からなくなってしまった方がマシだと感じる心がどこかにあるからではないのでしょうか?
淋しい人が認知症になる。
生きることが苦しい人が認知症になる。
私にはそんな気がしてならない。
2015年の春に長年一人暮らしをしてきた寝屋川の家から堺の我が家の近くに引っ越してきた母。
その時期にはもういろんなことが上手く処理できなくなっていて一人暮らしに限界を感じていたのでしょう。
引っ越しで何年かぶりに訪ねた母の家は、
「あ~、こんなところに一人で暮らしていたのか・・・」と苦しくなるほどに荒れ放題だった。
その時のショックは忘れられない。
我が家の近くのURに引っ越してきて、そこで暮らせたのは3年間。
だんだんと電灯やエアコンやテレビのスイッチが区別できなくなり、
電話が使えなくなり、料理もできなくなった。
最後の半年ぐらいは私が作って持って行く食事以外は、アイスキャンディーしか食べなくなっていた。
歩いてすぐのスーパーに行ってはアイスキャンディーばかりを冷凍庫いっぱいに買い続けていた。
朝スーパーに行ったことを忘れて、昼からまた行く。夕方にもまた行く。
キャンディーばかりを買って帰る。
真夏の炎天下の外で毎日デイサービスの車を待つようになり、
熱中症で倒れかけて通りがかりの人に助けてもらったこともあった。
もう選択の余地はなかった。
いくつかを見学して、結局、我が家から一番近いグループホームへ入れていただくことにした。
「私に”死ね”ということやね?」
私を責めて恨んだ母のこの言葉を忘れることはない。
でも、私は母とは一緒に暮らせない。
佐野洋子さんのエッセイが心に刺さるのは、イコール”私”だからです。
でも、母に会わなければいけない。
あれ以降、一度も私を責めることはしなくなった母に私は会いに行く。

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